それは究極のワガママだ①

こんにちは!

今月26日で4周年を迎えます、心斎橋の癒しのガーデンBar GreenSpotの八木です(#^^#)


さて、

冒頭からしっかり宣伝を入れたところで本題に入りたいと思います(^^)/


何やかんやで当店もオープンから4年を迎える訳で、その間本当にたくさんの方々とお会いしました✨


長く通い続けて下さっている方はもちろんの事、ごく最近通い始めて下さった方、転勤や引っ越しで今はもう来られていない方、そして一見さんも含めて当店の4年間の歴史を作って下さった事に感謝いたしますm(__)m


以前からお客様にちょくちょく聞かれる事があるんですが、八木がBarを開業した経緯や店名の由来、オープン以前の話を、そういえばあまり公ではしてないので、この機会にちょっと詳しく書いてみようかなと思い立ちました。


4周年を機に、今に至るまでの自身を改めて見つめ直してみます。


今自分のやりたい事になかなか挑戦できないでいる人や、生き方に迷っている人に対して、ちょっとでも後押しになればいいなぁと思います。


そんな訳で、長くなるかもしれませんが、しばしお付き合いくださいm(__)m


特に興味ない方はすっ飛ばしちゃってください👍



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◆創作の原点は音楽だった


中高時代にバンドに憧れる。

いつの時代もよくある話です。


八木の中学時代はラルクとGLAYの全盛期。周りには影響を受けてバンドを始める同級生も結構いて、八木もご多分に漏れずバンド活動を始めてみたりしました🎸

(当時はモテそうと思っていた)


そのまま高校へと進み、ある程度バンド経験も長くなってくると所謂「オリジナル曲」をやりたくなる訳で、見おう見まねで曲作りを始めます。


この頃の作詞ノートは探せば(多分)出てきますが、死にたくなる程恥ずかしいのでおそらく一生開く事はないでしょう。


何の知識もないまま始めた曲作りでしたが、元々「何かを真似て自分で作る作業」は得意だったので、アーティストの曲を参考にしながらひたすら曲を作り続け、大学に入る頃にはまぁそれなりに聴ける曲が作れるようになってたんですね。


バンドマンはたくさんいれども曲を書く奴ってそんな多数派じゃなかったので、バンドメンバーからも重宝されチヤホヤされ…プロになって音楽で食ってくぞ~!と青春まっしぐらの日々でした。(ちなみにそんなにモテた記憶はないです)


バンドが解散した後は一人(二人組ユニットもやった)でPCで打ち込みで曲を作って歌ってと全然熱は冷めず…

大学卒業後にバイトしながら音楽の専門学校に通うという変わった学歴の持ち主となります。


しかし音楽業界は当然そんな甘い世界じゃありません。

自分より上手くて良い曲を作る人なんて当たり前ですがいくらでもいて、現実にただただ滅多打ちにされる日々でした。


今でこそはっきり言えますが、自分は「職人」であって「プレイヤー」向きじゃなかったんですよ。


コツコツと曲を編集したりするのは得意やったし好きな時間でしたが、いざ人前でそれを披露するとなると緊張で100%のパフォーマンスが出せない。


それでも憧れと若さゆえのプライドで「プレイヤー」を貫こうとしてたんですね。

あの頃、潔く自分の適性を受け入れて職人(クリエイター)の道を選んでいたら、ひょっとすると全然違う今があったかもしれません。


が、結局音楽の道は捨てて一般企業に就職します。


それが24歳の時の話。


続く ⇒②へ

(いやこれマジで長くなるな…(´-ω-`;)